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にぼしめし

備忘録

私が私を革命する物語:『少女革命ウテナ』感想

少女革命ウテナ』を観終わった。
寓意とメタファーに満ちた美しい物語はひどく難解だったが、その中に込められたメッセージのようなものはなんとなく掴み取れたように思う。感じたことと考えたことを自分なりに書き留めておきたい。

 

少女革命ウテナ』は、自我を確立する物語であるように思う。

生徒会編(~13話)を観終わった時点で以下のような感想を抱いた。


「物語全体が思春期の少年少女の自我の確立のメタファーなのではないかと思えてくる。ジェンダーの男性性と生物学上の女性性でウテナ自身がアンビバレンス的状態に陥っている、その矛盾に思春期独特の揺らぎを感じる。決闘も成長のプロセスとしての心理的葛藤のメタファーに思えてくる。『世界を革命する力を!』の世界は自己の内部世界だろうし、卵の殻とはそのまま自分の精神的な殻を指しているのではないか。決闘が徹底的に『ウテナvs誰か』の構図を守っていることも考慮しつつ。」

 

最終回まで観た現在でも、この感想から考えは変わっていない。
未熟で不完全で揺らぎのある少女が、自分で自分の殻を破って成長し、大人になった物語であると考える。

▽ざっくりと考察したこと

天上ウテナと姫宮アンシーの関係を考える。あくまで個人的解釈だが、ウテナは「強さ」・アンシーは「弱さ」のメタファーであるように感じる。

天上ウテナは物語の中で徹底的に強い存在として描かれている。決闘で敗北したこともあるがほとんどの場合において勝利しているし、守られるより守る側の人間として存在している。
一方、姫宮アンシーは「薔薇の花嫁」として従属的であり、守られ、また虐げられるものとして存在している。

ウテナとアンシーは切っても切り離せない関係性にある。ウテナ・アンシー同一人物説という有名な考察があるが、同一人物とまでは言わずとも、メタ的に見れば対になる存在であるのは間違いないだろう。鳳暁生編以降に2人が使っているベッドの形は、太極図を連想させる。ウテナとアンシーは表裏一体の存在であることの根拠を見出すには十分だろう。

ウテナの不自然なほどの「強さ」は決闘を通して捉えることが出来る。
ウテナに敗北した決闘者たちは皆どこかに弱さを抱えている。そしてそれは執着に起因している。想いを捨てられず、それ故に不安定さを孕んでいる。
彼ら/彼女らと比べて、ウテナには具体的な他者への執着は存在しない。それはある種の欠落のようでさえある。つまり、強いウテナは強いからこそ不自然さ/不完全さを感じさせるのだ。

結局のところ、『少女革命ウテナ』に込められたメッセージとは、「強さと弱さを併せ持つことこそ真の強さに繋がるのであり、その弱さを認めて受け入れることには痛みを伴うが、劇的な変化=革命をもたらす」というようなものではないか。

最終回で、ウテナは無数の剣に貫かれるアンシーを見て見ぬふりをして切り捨てるのではなく、救い出してその手を取った。
アンシーを自我の「弱い部分」と読み解くのならば、無数の剣とは自我に対する社会からの攻撃だろう。それは心無い言葉かもしれないし、他者の無遠慮な視線かもしれないし、社会の厳しさと言うような辛い経験かもしれない。アンシーが刺し貫かれる=自分の心が傷つく、と解釈する。そこで「強さ」であるウテナは、自分の傷を見ないふりをして仕舞い込むこともできる。しかし痛みを厭わずに弱さと向き合い、受け入れることを選んだ。そうして「革命」は為されたのだ。


エピローグで、ウテナは学園を去り、アンシーもまた学園を去る。このときアンシーは髪型と服装を変え、「ウテナ様」という従属的な呼び方ではなく「ウテナ」と呼び掛けている。「弱さ」のメタファーであったアンシーが成長し、新たな存在として昇華した瞬間である。革命を成した2人は、未熟さや幼さの象徴としての狭い世界である学園にはもう相応しくないのだ。

「いつか一緒に輝いて」。本当の輝きとは、美しさとは、強さと弱さは表裏一体で切り離すことが出来ないものであることを認めていることなのだろう。

 

▽好きなシーンのこと

私が『少女革命ウテナ』で好きなシーン・エピソードを2つ挙げたい。

1つは、第37話「世界を革命する者」におけるウテナとアンシーの会話である。
紅茶を飲む2人は、バッハの「主よ人の望みの喜びよ」を背景にしながら以下のような言葉を交わす。
「カンタレラってご存知ですか?昔イタリアのボルジア家が使っていた猛毒の名前です。いかがですか?そのクッキー。それ、私が焼いたんです。」
「偶然だね。その紅茶も毒入りなんだ。」

この会話の背景には、2人が同じ男に抱かれていて互いにそれを知られないようにしていたが知ってしまった、という事情がある。
勿論紅茶にもクッキーにも毒は入っていない。互いに裏切りを認めたことのメタファーなのだが、筆舌に尽くしがたい美しさがある。2人がこの会話を踏まえてもなお紅茶とクッキーを口にし続けていることが本当に素晴らしい。

 

2つ目は、第23話「デュエリストの条件」における御影草時との決闘シーンである。
そもそも御影自体が非常に魅力的なキャラクターで、過去に囚われ執着している美しい男なのだが、この決闘の中で彼にまつわる物語の叙述トリックが明らかになる。その瞬間、彼の決闘曲である「ワタシ空想生命体」の歌詞の意味合いが急に存在感を持って迫ってくる。決闘の後に根室記念館を訪れるシーンを見た時は呆然となり言葉を喪った。

 

少女革命ウテナ』の魅力は、考察してもし尽せない/語れど語れど語り尽くせないように感じる部分にあるだろう。運命について、『輪るピングドラム』との関連性など語りたいことはまだまだあるが思考がまとまらないので、とりあえずここまで。
ちなみにキャラクターとしては御影草時と有栖川樹璃先輩が大好きである。

 

世界は音楽に満ちている。:恩田陸『蜜蜂と遠雷』感想

 

 遅ればせながら第156回直木賞受賞作である、恩田陸蜜蜂と遠雷』を手に取った。もともと読みたいと思っていたところに「ピアノコンクールにまつわる群像劇」と聞き居てもたってもいられなくなってしまった次第である。

 結論から言えば、私はこの作品に出会うために読書をしてきたのかもしれないと感じるほどの作品だった。

 もともと恩田陸の作品は好きだった。ちょうど高校生の時分に「夜のピクニック」のすがすがしいような読後感に惚れ、「ドミノ」の緻密な構成に唸り、「ユージニア」の暗澹たる不気味さに戦慄した。
 この「蜜蜂と遠雷」の帯の煽りは「著者渾身、文句なしの最高傑作!」である。
実にその通りだと思った。500頁超かつ二段組みという超絶ボリュームながら、一気に読ませる力がある。そして余韻がすさまじい。このような勢いだけの文章を書かせるに至るほどには。

 あるピアノコンクールに集う様々な天才の群像劇である。風変りな「ギフト」の風間塵、かつての天才少女の栄伝亜夜、名門のサラブレッドのマサル・C・レヴィ・アナトール、生活者の音楽を奏でる高島明石。それぞれがそれぞれの音楽観を持ち、それぞれの姿勢でピアノと向き合い、それぞれの音楽を奏でる。物語のほとんどを彼らの演奏シーンが占めるのだが個性をはっきりと感じ取ることが出来る。文字の上の音のない描写であるのに。まずそのことに戦慄した。

 読者である私自身はこれまで音楽に縁のない人生を送ってきた。クラシックに関しては世界史の中の要素のようにしか感じていなかった。そんな音楽に造詣のない人間であっても、素直に感動し、胸を熱くし、なんらかの旋律が脳内を支配した。クラシックは歴史の遺物などではなく、何百年もの間人類に寄り添いタペストリーのように様々な人や場所や出来事を取り込んで広がり続けるものだという実感を得た。それと同時に、いかに自分が狭い世界の中のそれも一部分だけを見つめて生きてきたのだろうかと恥じる思いでいっぱいになった。世界はこんなにも美しい音楽に満ちている。音楽は常に寄り添っている。ただ、私がそれに気付かなかっただけのこと。

 作中で繰り返し繰り返し語られる熱量の塊のような「音楽への愛」。それにあてられてしまったのだろうか。クラシックが聴きたくてたまらない。この作品を読みながら作中で演奏される曲目を見ただけですっと旋律が浮かんでくるような人々が素直に羨ましいのだ。このような思いを静寂と孤独に満ちた趣味である読書を通して得られるとは思ってもみなかった。それほど私にとって「蜜蜂と遠雷」は強烈だった。頭の中の音楽はまだ鳴りやみそうにない。

それでお前は誰なんだ?:『シルバー事件』感想

※ネタバレを含みます。

 

 昨年の秋ごろ、HD版リリースに合わせて購入した「シルバー事件」をようやくクリアした。「ものすごく人を選ぶけれど、嵌る人はとことんのめり込むだろうな…」が第一の感想である。

 正直、やたら面倒なシステム、謎解きですらない謎解き、いちいちもっさりしている挙動、文脈がよくわからない言葉足らずのテキスト、と勧めるに躊躇する点は数多くあるが、シナリオ全体に漂う独特の寂寞感とアングラ感が心地よく、クリアした後の余韻がとても良い。「ウエハラカムイとは何者か?」という問いに終始し、一応解答らしきものは提示されるが、クリアして抱く感想は「それでお前は何者なんだ?」である。ずっと「自分」だと思っていた私(特に入力時に謎の勘違いから「me」というネームにしていた故に余計に)がどんどん自分の手を離れ、乖離し、浮遊し、どこか遠くへ行ってしまうのが奇妙だった。

 一番好きなシナリオは「パレード」だ。これはもう圧倒的で、このシナリオがあるがために他の欠点が全て掻き消えている。コダイスミオの名を見るだけで胸が詰まる。その愚かさゆえ愛してしまう。「パレード」中盤までは、なぜこのシナリオがやたらと評判がいいかが理解できなかった。ただの誘拐事件でしかなく、よくわからないまま終わる上に不気味だ…と思っていたところに、コダイスミオの名が出てきて文字通りひっくり返りそうになった。このゲームを進めていると毎度なぜか眠くなってしまうのだが、この時ばかりは一瞬で目が覚めた。そして涙をとめることはできなかった。過去を殺す・・・最後の会話がよかった。先ほど言葉足らずのテキストと批判したが、このシーンではそれが最良の形で活きていた。極限まで余分な要素がそぎ落とされ、シンプルで含みのある会話となっていた。「僕の全てがありました」からの背広の思い出はずるい。もともとコダイスミオというキャラクターを気に入っていたがために、この展開はショックで仕方なかった。あまりの喪失感に、「パレード」を終えてからしばらくプレイを休んだ。しかし、コダイスミオの存在ゆえに私はこのゲームのことを忘れないだろう。

雑感:『ユーリ!!! on ICE』

心身ともに疲れ果て、なんだか自分が今人生のどん底にいるかのような思いを抱く毎日の中で勧めを受けて、続きを見ずにずっと放置していたユーリonICEを見始めた。正直そんなことをしている暇はないとぐるぐる考えながらも、なんだかんだですぐさま見終わり、涙を流しながらこのエントリを書いている。

 

もう100万回は述べられたであろう感想だが、ユーリonICEを貫く芯は愛である。あえて愛と呼称する感覚は、恋愛だけでなく友愛、親愛、家族愛、郷土愛、そして自分の過去と未来の成功と失敗その全てを愛するような気持ちである。いとおしさであり、優しさであり、許容であり、ひとりではないという思いに起因する強さである。

ユーリonICEの中では愛が循環している。どん底で一人うずくまっていた勇利が、ヴィクトルの手でまた歩き始める。2人は愛で繋がっている。作中で勇利が述べた通り、愛のような感情を知ったのだ。そしてその愛はそこでは留まらない。南くんは勇利への憧れを抱き、敬愛を見せる。最終回後の世界では、きっと彼だけに留まらないだろう。多くの人が勇利の演技に感動し、心を動かされ、なんとも言い難い熱い感情に衝かれる。画面の前にいる私たちを含めて。

ユーリonICEで見られる美しさは強さに起因する。成功だけではない世界の中で、失敗してもなおあんなにも美しいのは、ひとりひとりがそれぞれ異なる強さを持っているからだ。毎回登場するわけではないキャラクターにもそれぞれの人生があり、美学があり、目指すところがある。それを押しつけがましくなく、さらっと見せてくれる。たくさんの人の考察を目にしたが、ステレオタイプの破壊について言及している感想が多かった。フィクションの中にさえ浸透してしまった「永久不変にも思える当たり前」を軽やかに飛び越えていく。マイノリティはマイノリティかもしれないが、それがなんだ?自分は自分じゃないか、という強さがにじんでいる。社会の中で生きる人間につけられたタグをそっと剥がしてくれる。一人として同じ人間はいないというごくごく当たり前の事実を思い出させてくれる。

ユーリonICEのスケートリンクは誰もが心に持っている。冷たい氷の上のただ一人の舞台は本当のスケートリンクだけではない。それは会社かもしれないし、学校かもしれない。あるいは発表の場であったり、小さな勝負の場かもしれない。それぞれの舞台を最高のものにするために、私たちは日々戦っている。そこに作中の人物たちとの差はない。願わくば、その舞台で戦う自分を少しでも愛せますように、との願いが込められているような気さえする。

同じく愛を再定義するアニメである輪るピングドラムが大好きな私が、ユーリonICEを好きにならないはずがなかった。何度でも生まれ変われる強い人間になって、どん底の自分さえも愛せるようになりたい。という推敲もろくにせず書き留めただけのとりとめのない雑感である。

『それでも町は廻っている』最終回の考察

※「それでも町は廻っている」最終回と、137話と既刊のネタバレを含む。
※この記事の内容は個人の希望に基づいた解釈である。考えの一つとして捉えていただきたい。

2016年10月28日発売のアワーズ12月号で、石黒正数先生の漫画「それでも町は廻っている」が最終回を迎えた。
石黒先生、長きにわたる連載お疲れ様でした。

それ町」は私にとって非常に思い入れのある作品で、きっとこれからも日々の生活に寄り添うように続いてくれると信じていた。私にとって「こち亀枠」であってほしい漫画だった。
緊張と寂しさを抱えて読んだ最終回について、自分なりに考えたことを簡単にまとめたい。

まず、最終話「少女A」は「本当の最終回」ではない。

最終話(138話)に触れる前に、その前月号掲載話(137話)について触れておきたい。
137話「嵐と共に去りぬ」のあらすじは以下の通りだ。
超大型の台風が近付く夜に、歩鳥は夢を見る。夢で、謎の未来人に「明日の台風で多くの人が死ぬ。歩鳥の存在そのものと引き換えに災害を回避できる」と提案され、歩鳥は自分のいない、しかし平和な世界を選ぶ。

次に、最終話(138話)のあらすじを述べる。
尾谷高校3-Aでは、「クラスにいたはずの誰かのことを忘れている」ような違和感を全員が抱えていた。その「少女」を思い出せないまま、放課後を迎える。真田とタッツンは、黒いショートカットの少女の後ろ姿を捉え、思わず走り出す。
……そこにいたのは歩鳥だった。真田とタッツンは、歩鳥に演劇の脚本の進捗を尋ねる。
実はクラスでの会話は演劇の練習であり、脚本担当の歩鳥はオチが思いつかず悩んでいたのだった。

一部まとめサイトを中心として、「オチが思いつかないという作者の叫び」「投げっぱなしの最終回」などと言われているが、私はそうは思わなかった。投げっぱなしの最終回でないのは石黒正数先生のインタビューからも明らかである。
「『それ町』のオチも連載開始当初のもので、前振りは単行本3巻の学園祭のあたりから少しずつばら撒いてきました。前回(中略)は14巻『夢幻小説』の歩鳥の回想へと続いています。」(アワーズ2016年12月号 518頁 2段目 17-22行より引用)

したがって、137話に続くのは14巻収録の「夢幻小説」であり、この話こそが実質的な最終回の役割を担っていると考えるのが自然である。
「夢幻小説」は、「歩鳥が生まれなかった世界」に歩鳥が迷い込んでしまう話である。「歩鳥の抱く根源的恐怖」を描いた、かなり踏み込んだ話である。他の話と比べても毛色が違い、かつ「夢現小説」などとも繋がりを持つ話である。

読者ならば誰もが気付いている通り、本作品には時系列シャッフルシステムが組み込まれている。1話〜2話完結のストーリーを活かして、嵐山歩鳥の高校生活を自由に行き来する漫画となっている。したがって137話と138話の間に連続性はなく、137話に連続した話は既に既刊に収録されており、最終話である138話のストーリー上の続きもまた存在している。
137話と138話が繋がっているように感じるのはミスリードである。
(特に最終回の冒頭は、歩鳥がいない世界かのように読者は錯覚するが、実際は「そういう脚本の演劇の練習」)

以上のことを踏まえつつ、最終話をメタ的な視点で捉えてみる。
おそらく時系列順に正しく並べると、138話は時系列上では最後に位置しない。138話の後も歩鳥の高校生活は続き、物語は続いている。最終話を読んだ後も、読者はその続きの物語を知っている。しかし現実では、来月号のアワーズに「それ町」は掲載されない。
時系列シャッフルによって、構造的に「廻っている」のだ。

つまり、「それ(=最終回を迎えた後)でも町は廻っている」。

このメッセージこそが、「それ町」の根幹をなすテーマであり、最終回に込められたメッセージなのではないかと感じた。
それ町」の掲載は終わったが、丸子町商店街の皆の暮らしが終わったわけではない。これからも日々は続き、町は廻っていく。
現実の私たちの世界も同じである。人が生まれ、死んでも、町は廻っている。
私たちの暮らす町のすぐそばに「あるかもしれない」丸子町の暮らしを、石黒正数先生を通して覗いていただけに過ぎないのだ。読者に見せてくれるのはここまで。

夢現小説」で歩鳥はパラレルワールドに迷い込む。パラレルワールドは1つではない。私たちの暮らす町もまた、「丸子町商店街」のパラレルワールドなのかもしれない。そんな希望を抱きながら町を歩いてみると、いつもと違った風景が見れるのではないだろうか。 

※インタビューの引用につきましては、著作権侵害の意図はありません。問題があれば該当記述を削除しますのでご一報ください。

逆転裁判は成長物語であってほしい:『逆転裁判6』感想

※ネタバレを含みます

 

約9年前、ゲームショップの店頭で大々的に展開されていた新作ゲームに目を惹かれた。なんだかおもしろそう、という直感のもとにそのソフトを買い、プレイしてみた。夢中でクリアし、すぐにシリーズ作を買いに行った。

そのゲームソフトのタイトルは逆転裁判4であり、これが私と逆転裁判の出会いだった。

そして新人弁護士だった彼は、今ようやく一人前の弁護士になれた。

 

つい先日、逆転裁判6をクリアした(追加シナリオも含めて)。

まず第一に抱いた感想が、「王泥喜くんの物語でよかった」である。

すでに述べた通り、私が初めてプレイしたのは「逆転裁判4」であり、初めて出会った弁護士は王泥喜くんだった。王泥喜くんというキャラクターのことは非常に好きで、逆転裁判4のことも決して黒歴史であるとは思っていない。しかし、世間的には4は評価が悪く、遺されたシナリオ上の歪みは大きかったように思える。本作も成歩堂王泥喜のW主人公という体で宣伝され、そのようにシナリオが構成されている。

しかし、逆転裁判6は、間違いなく「王泥喜法介の物語」だった。

いきなり出てきた怪しげな活動家が育ての父だとか、謎の僧侶検事が兄弟同然に育った存在だとか、彼の人生はどれだけ波乱万丈なんだ?と初めは突っ込みたい気持ちでいっぱいだった。しかし、最終話のラストの裁判でドゥルクの死を指摘するシーンでは思わす涙がこぼれた。本当の父である奏介のお蔭で真犯人を追い詰めることができたのには胸が熱くなった。エピローグの王泥喜法律事務所の看板を目にした時には誇らしいような寂しいような気持ちでいっぱいになった。

王泥喜くんが悲しみを背負いながらもそれを力にして乗り越えていく姿を見守ることができたのは、彼を愛するプレイヤーとして幸せなことだ。逆転裁判4の「失敗」により、彼自身の物語は閉ざされてしまったのかと思っていたが、本作できちんと彼の物語が描かれ、本当の意味で新人弁護士から一人前の弁護士になることができたように思える。

 

逆転裁判シリーズを考える上で重要な要素は「成長物語性」と「法曹界の歪みの是正」であると私は考える。前者は逆転裁判1~3(いわゆる成歩堂シリーズ)に、後者は逆転裁判4~5にそれぞれ見られる。これらのどちらに寄せたシナリオであるかがファンの評価の分水嶺になっていると感じられる。本作は、その2つの要素をうまく擦り合わせることが出来ているのではないだろうか。王泥喜くんの成長とクライン王国(の法曹界)の革命という主題同士がきれいに絡み合っているように思える。王泥喜くんの後付け設定がモリモリではあるが。

つまり、逆転裁判6は『逆転裁判4~6における「逆転裁判3」』になれたのではないだろうか。逆転裁判3成歩堂が師である千尋さんを超える物語である。そして、逆転裁判6王泥喜くんが師である成歩堂、そして弁護士としての彼のルーツと言えるドゥルクを超える物語なのである。

 

 以下、その他に感じたことを述べる。

新システムの霊媒ビジョンがものすごく怖かった。特に3話の鳥姫様がトラウマになった。と言うよりクライン教の信仰対象が怖い。始祖様の顔が描かれていないのも不気味で苦手だった。私はクライン教徒にはなれないと思った。しかし、システム的には面白く、指摘もそこそこ難しく当てずっぽうで切り抜けられないのが良かった。

 

カンガエルートは5からの続投だが、4話で大いに笑わせてもらった。「真の凶器はウドン生地」というとてつもないパワーワードを生み、シュールな笑いをもたらした功績は大きい。誰かにこの面白さを伝えたいのに、核心に触れてしまうため言えないのがもどかしい。

4話に関しては、ユガミ検事と心音ちゃんの掛け合いの面白さを堪能できて良かった。大筋であるクライン王国の物語が動いていくタイミングで、全く関係ないエピソードを挟んだのは良い判断だったと感じる。箸休めのような感覚でプレイできたし、クライマックスへの期待感を高めることができた。

 

惜しい点を挙げると、音楽と細かい展開の強引さである。

まず音楽だが、基本的に印象が薄い。クライン教の歌が一番記憶に残っている。

細かい展開の強引さは、特に法廷パートで見られたように感じる。具体例は挙げられないが、ハッタリのごり押しに違和感を抱いた。直近に大逆転裁判をプレイしていたせいで違和感が目立ったのかもしれない。テキストのおもしろさ、美しさについては巧さんはとにかく偉大すぎる。

 

本作の発売前の印象は「クライン王国?W主人公?また斜め上の方向に…」とあまり良くなかったのだが、蓋を開けてみると非常に楽しめる作品だった。成歩堂なしで商品としての逆転裁判を売るのが難しい中で、最大限に王泥喜くんの物語を描いてくれたことは、4から入ったファンである私にとって何より嬉しいことであった。同じように救われた王泥喜ファンがいると信じている。